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イジメ体験=俺がハンパな過激派になった原因

  • tp278442
  • 9月16日
  • 読了時間: 19分

更新日:10月1日

⚠️閲覧注意!⚠️~おぞましすぎるイジメ体験 俺は1980年前後の西日本の百万都市で少年時代を過ごした。 小学校は片道徒歩1時間かけて通っていた(大げさではなく)。 同小では地域の子供で「登校班」を編成し、一列になって登校するのが決まりだった。男は男の班。女は女。 俺の住まいは山の斜面を切り開いてできた新興住宅地。 できたばかりの団地で、アメリカの西部開拓地みたく、地域の人間関係が0から始まった頃だった
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家の位置があと10mずれていたら、俺の小学校生活は地獄に落ちる事はなかったのに、、、。 隣の4区は高校教師やパイロットの子弟が高学年にいて、低学年の子も平和に通学する事ができていた。 俺がいた3区は性格の腐ったM町という高学年が班長だった。こいつが低学年をイビルイビル。 学校に到着すると、点呼を取る、その時に低学年は一人一人 学対5回。U河4回みたいにカウントを取る。 登校中に泣いた回数である。 1~2年生で0の日はなかった気がする 封建社会としか例えようがない3区では、異性に興味を持つ事は男児として、最も恥ずかしい事だった。 同じ3区の同学年にB田さんという子がいたのだけど、登校中にB田さんの班とニアミスする度に、先輩が2,3人がかりで俺をB田さんに押し付けれる。 それが屈辱で屈辱でギャーギャー泣きわめいた抵抗した映像を今でも覚えている 屈辱だった理由の1つにB田さんがドブスだったというのも大きい。 可愛かったらそこまで屈辱じゃなかった気もする 俺が他の子よりもいじめられたのは、頭でっかちな異質な雰囲気と、年上に追従する要領の良さがなかったからだと思う。俺の根っこは我の強いKYだからね。年下として年上を敬う正攻法以上の振る舞いができなかった。 1年時のイジメはまだ穏当な方だった2年昇級時に、3区に2人の5年生が転入した。 T矢とO谷。 T矢は後に80年当時の校内暴力真っただ中の公立中で番長を務める。O谷も成人後は輩になった。 T矢の小5ながら暴力性は凄味があった。 登校中に柿の木の下を通る。 隣は酒蔵が建っていた。蔵の壁に柿をなすりつけてケツのマークを描く

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T矢「あれがU河(3年)のケツじゃ。投げろ」 皆がそのケツのマークをめがけて、柿の実を全力でぶつける。 オレンジの柿の汁が、酒蔵の壁に消えない跡を残す。 身体に柿を投げつけられる以上の屈辱をU河は感じていたと思う。 俺は次は俺のケツが描かれるのではないか、恐怖におびえていた。 自分が柿の実を投げたシーンは記憶にない

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U河の父は車屋でスポーツカーの修理もしていた。 息子が陰惨なイジメにあい、その解決を試みんとT矢ほかをスポーツカーに乗せるなどして懐柔した。 親同士の陳情もあったのだと思う。 柿の実を投げつけられたU河はその後、誰よりも厳しく低学年をイジメる側に転向した。 イジメの刃は2年の俺とD田に向けられた。

登校中、人目につかないエリアに着くと、そこがゴングに変わる 「赤コーナー。51パウンド、泣き虫シンヤー」 青コーナー。53パウンド、モンキーDぃーだー」 2年生同士で拳で殴り合う事を強要されるのだ 高学年に取り囲まれる中、口真似でゴング音が鳴る 「カーン!」

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実際に殴り合った記憶は抜けている 1日は1ラウンド。先に泣いた方がそのラウンドの勝者。 これを15ラウンドまでやる予定だった。 記憶では8ラウンドまで進んで、1ラウンドが俺が取り、7ラウンドを梅田がとった。俺が取った1ラウンドはヤケクソで腕を振り回したらD田が怖くなって泣いたというもの。 9ラウンドから、登校班で学校に行くのを辞めた それが登校拒否だったのか。登校班とは別に学校に通ったかは記憶にない。 多分ボクシングの事が地域の父母の間でも話題になって、拳闘ごっこは終わった。 俺は登校班に戻った。 当時のもう1つの鮮明な記憶に、M町に対するクーデターがある。 古くからの住人のM町が班長だったのだが、それに対しT矢が実力がない癖に生意気だということになった T町はスネ夫タイプ。悪知恵の働く陰険君だった。 そのM町に対し、団地の公園で登校班の十数人で集団リンチを行った。ここで重要なのは我々低学年もM町に対する攻撃に参加する事だ。 3区の封建社会では、低学年は高学年に絶対服従。 下が上に逆らえば徹底した制裁にあう。 T矢がM町に対し、最も屈辱を味あわせるには低学年にM町に唾を吐かせる事な訳だ。 自分が手を下したかは記憶がない。 その代わり、リンチにあって、公園から去っていくM町の後ろ姿だけは今でも強烈覚えている。

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3年生に昇級。 2歳年下の弟と、ウーが登校班に加わった。 それまで家の中ではイジメや、毎日泣かされている事は弟にバレてなかった。弟に対し兄貴として振る舞う事ができていた。 3区の封建社会では、下に見下される以上の屈辱はない。 泣かされるのは慣れていたけど、弟の前で泣く事の方はレベルの違う屈辱だった。 勿論、弟もよく泣かされたけど、容量のいい彼は可愛がられる方法も知っていた。 何より運動神経が良く、草野球などで戦力になった。 俺は運動神経が鈍いと途中から、野球にはいれて貰えなくなった。3区の人口も増えすぎたので班も分割され、T矢&M町とは別れる事ができた。 穏健なY谷が班長となった 4年生。 Y谷が卒業し、隣家のカズが班長に。カズの弟のヤスが1年に。 俺の3歳年下のヤスは俺を「学対」と呼び捨てにした。「学対くん」とは一度も呼ばなかった。 これは封建社会では非常に屈辱なのだ。 ヤスに呼び捨てを辞めさせる方法は、俺には思いつかなかった。1年からいじめられ続けているからそのリソースがない。 年下に呼び捨てにされる兄貴という事で弟の俺に対する尊敬は著しく減った。 冬の時期炬燵の中の陣取り合戦で、俺は弟に対し一切手を抜かなかった。 常にいじましく領土拡張を狙っていた。 一度、足の指先に針をくくりつけた事がある。 領土を広げようとして足を延ばした弟は針に足を触れさせ、その痛さに大泣きした。 最近、弟に再会した際、このことをようやく謝る事ができた。 「兄ちゃん、あれは本当に痛かった」 弟もその事はしっかり記憶していた。

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弟の前でのメンツが傷つけられているからこそ、家でも権威の失墜を常に意識せざるを得なかった。権威回復の為の焦り。 弟に対する優しさの思い出がほとんどない。 カズは陰険で、ウーに対するイジメはT矢のそれよりひどかったかもしれない。 ウーへの攻撃は、年下のヤスまでが積極的に加担した ウーは耐えきれず、登校拒否を繰り返した。 皆はウーに暴力は振るったが、俺は彼に対し暴力をふるう事だけは線引きをした。 しかし言葉の暴力には参加した。 俺の悪口は相当辛辣だった。 当時、俺はこのようなイジメはあるべきではないと思っていた。 しかし封建社会の中で、超然としている事はできなかった。感覚が麻痺していた。 ウーは彼のあだ名。 何故ウーと呼ぶかというと、彼は「ウー」と泣くからだった。 彼は成人後、893になった。 ある日川縁を歩行中に弟がカズに蹴られた。運悪くガードレールの下を通り抜けて、川に落ちた事件があった。 ズブ濡れの弟は泣いて家に帰り、その日は学校を休んだ。 帰宅し母親に説明する時、俺は「たいした事ではなかった」と説明した。 普段の暴力と比べれば、その日のカズの暴力は出会い頭みたいなものだったからだ。 麻痺していた。
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登校の道半ばに、よく庭から登校する小学生を眺めている障害者女性がいた。 その障害者が庭にいるといつも悪口をいって、時には石を投げていた ある日、石が彼女の顔にあたり、彼女は家に引っ込んだ。

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今、初めて気が付いた。 俺はサッカー界のレジェンド三浦カズ選手に対し何故か好意を抱けなかった。衰えた最近ではなく日本代表として大活躍していた時代からだ。 カズという名前に苦い思い出があるからだ。ちなみに三浦カズの兄も元日本代表でヤスって名前。 1,2年の時のクラスメイトの名前は一人も覚えていないのに、3区の少年達の名前は全員覚えている。隣の4区の登校班はこのような暴力支配とは無関係に、楽しそうに通学していた。 何故こんな理不尽がまかり通っているのか? 自分が6年生になって班長になったら、平和な登校班を作ろうと楽しみにしていた。 6年時は、親の海外転勤で日本人学校に通う為、果たせなかった。 単純な疑問として、こんなに激しいイジメがあるなら、何故私立に子供を転向させないのか?って思うだろう。 都会ではない。 田舎過ぎた。市内まで1時間かかる山の上。 中学ならともかく小学生でそんな距離を通っている生徒はいなかった。 当時はイジメが社会問題になる以前の時代。 理不尽は社会にゴロゴロ転がっていた。俺世代ならよくある話 また子供の世界は自律的な世界。親に「どんな風にいじめられているの?」と聞かれれば、恥をさらしたくないから、最小化して説明するのが常だった。

■思いやり、気遣い=「媚び」! 登校班は封建社会だったものの、クラスでは普通の生活を過ごす事ができた。 しかし2年生の頃から、クラスの空気に対し、調子をあわせようとする自分の振る舞いが嫌で嫌で仕方なくなった。小学校ではよく「思いやりを大事に」などという標語が掲げられていたが、「思いやり=媚び」だと唾をはいていた。 他人の目線を気にしない自我=一貫性を確立したい強くと願った。 春休み冬休み夏休みの終業式の下校の際、「今学期は先生やクラスメイトに対し、迎合しないで自分を貫けたか」を反省するのが常だった。 そして始業式の度に「今学期こそ、媚びない一貫性のある自分を貫くぞ」と決意していた。

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これが小学3~4年生だから相当の変わり者である。 幼少期から自我が異常に発達した子だった。 登校中の封建社会で、猫の皮を被るのは生きてく為に必要だった。 だからこそ暴力を恐れる必要が無い学校内で、人目にあわせて振る舞いを変える自分が汚く感じられたのだと思う。 せめて学内では、同調圧力に日和らない自分でいたい。 長期休み毎の振り返り。4~5年生の頃はしなくなった。 それは4~5年に担任となった23歳の先生が、自由奔放かつ個性を賞賛するクラスの空気を作ったかもしれないし、中学受験の存在が大きくなったかもしれない。 担任の奔放さのエピソード ・女子が手書きで書いた漫画をクラス全員分印刷。 クラス内週刊マンガ雑誌があった ・授業を潰して遠足も頻繁 ・月に1度は演劇会を開催 ・ある月は演劇会ならぬ縁日を開催。俺は出し物としてカジノを主催して、クラス内の仮想通貨を全て総取り 6年生時。日本人学校で過ごした1年間は天国だった。人生最大のモテ期。 → 楽しすぎてエピソードにきりがないので割愛。 中学受験では中高6ヵ年一貫校に入学した。 俺は戦前の旧制中学のように「天下国家を論じたい」と思って入学したのだけど、入学した進学校にそういう空気は皆無だった。何より「凄い奴」がいなかった。 本当にぬるい奴ばかりで、退屈で気が狂いそうだった。 自分の気質とマッチングする友達を探したのだけど、妥協せざるをえなかった。
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やがて母校が1969年に学園紛争(バリケード封鎖)に数百人の生徒が結集したというエピソードを知り、血沸き肉を躍らせた。 当時は左翼系の雑誌や書籍が今よりも豊富だったし、学校の図書館もラインナップが充実していた。 中2の冬から左翼書籍を読み漁り、中3の春休みには東京の左翼系市民運動や集会を訪ね歩く1週間の旅に出た。 自分より凄いと思える同級生が学内がいれば、学外に刺激を求める必要はなかったかもしれない
■争いの嫌いな少年が、暴力学生に憧れた訳 俺が活動家に過剰に憧れた理由もイジメ体験が原因だし、
「世の為、人の為」に生きる真っ当な活動家になれなかった原因も、イジメ体験にある。
以下、順に説明する 今でこそヘルメットをアイコンにして強面(コワモテ)で売ってるけど、10代の俺は殴り合いはおろか口喧嘩もできない軟弱なプチブルの坊やに過ぎなかった。中学時代は意識高い系リベラル。 通学路にH大があって、当時は拠点校だったから、6メートル大の巨大なタテ看に「軍報~革マル●●を重殲滅」とゲバ字で書いてあるのに興味は持っても決して接触はしなかった。 当時は日本が一番調子が良かった時代で、明らかな不正、貧困、監視社会の息苦しさは今より少なかった。
暴力アレルギーが人並に強かった自分が過激派学生運動にやたらと惹かれたのはなぜ?
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このBLOGを書いてて気づいた。

学生運動の暴れっぷりにあんなにも憧れたのは、自分から失われてしまった怒りの感情がそこに充満していたからだ。 そう自分はイジメ体験のせいで、不正への怒りがなくなってしまっていたのだ。 厳しい封建社会のイジメを生き抜く為には、正義感や弱者への共感は邪魔ものでしかない。 勿論自分も怒る事が皆無な訳ではない。物欲と金銭欲は人並み以上にあるから、自分の所有権侵害には怒りが作動する。

中学時代はつまらなかった。話のあう友達がおらず孤独だった。そのモヤモヤをどう処理すればいいかわからなかった。男子校ゆえ恋愛という逃げ道もなかった。

図書館で見つけたかび臭い匂いのする学生運動の書籍を開くと、闘争記の中で学生達は熱く怒っていた。

この人達はなぜこんなに怒れるんだろう。「怒り」が俺の感情を最もゆさぶった。

体制的な価値観のしみ込んだ自分も、運動の渦中に飛び込めさえすればこんな風に怒れるようになるんじゃないかってね。

勿論、当時はこのメカニズムに気づいていなかったが。

■で、怒りの感情は取り戻せたのか? 1ミリ取り戻せなかった_| ̄|○

反体制の書物をいくら読んでも理屈はわかっても、不正に対する怒りや弱い者への共感はわかなかった。 「戦争反対」

誰もが口にするそんな一言すら、確信をもってもって語ることができなかった。 右翼的心情が歯止めをかけるのならまだよい。 自分に深く根付いた体制保守的な価値観が、心の中でディベートを始めてしまうのだ。 当時「反原発」が流行っていたけど、「石油の高騰に備え多様な発電を併用する必要がある」という想念がポップアップして、自分の考えがわからなくなる。 左翼運動をやりたいのに、何一つ確信を持てるテーマがない。当時南アフリカではアパルトヘイト(人種隔離政策)が施行されていた。明らかな差別である。この問題であれば怒れる、戦えるかもしれない。YMCAで開催されていたアパルトヘイトの学習会に何度も参加した。しかし自分がアパルトヘイトを非難するのは、意識高い系を自慢したいだけで、1ミリの同情や怒りがない事には変わりがなかった。 中国革命の本を読んだ。文化大革命で毛沢東が党内多数派を「走資派」と規定して、いびり殺したと知った時、自分が何者なのかわかった。 自分は「走資派」だったのだ。社会を丸く収めることが一番で、矛盾があってもそれを告発するより、角をたてずに処理することを良しとする価値観の持ち主なのだと。 走資派=革命を資本主義の方向に持って走らせようとする個人や集団。当時実権を持っていた官僚、WIKIへのリンク

正座の男がぶらさげてるボードには「走資派」と書いてある
正座の男がぶらさげてるボードには「走資派」と書いてある

資本主義の論理(+抑圧的な封建制)が小学生時期に無意識にインストールされているので、左翼の論理がに対し必死に抵抗する。 抑圧のない社会は勿論素晴らしい。だけど、世の中は弱肉強食なものだと、心の底では思っているから理想を唱えるそばから、「そんなの無理じゃん」ってダークサイドの自分が囁き始める。 当時の自分は体制的な無意識を「走資派」と呼び、左翼の大義を「アンチのハート」と呼んでいた。 学内で仲間を探せば、 運動の現場に行けば、 惨い抑圧に苦しんでいる人の話を聞けば、 同じ高校生で戦っている奴を探してコラボすれば、 いつかアンチのハートを掴めるんじゃないか。 自分の内なる走資派を打倒する事ができるんじゃないか。


そう思って様々な運動に顔を出したけど、「アンチのハート」は1ミリも手に入らなかった。 「怒りのインポ」は回復の兆しすらなかったのだ。

外山恒一とは高校1年の冬に知り合って以来、ライバル的な関係を続けていた。 愚直に闘争を続けていた外山は俺に対し「いろんな運動に顔を出して何かやってる風だけど、闘争現場を持たないただの耳年増」と批判していたけど、それは実に的確な批判だった。 俺は小学生の時から政治に関心が強かった。もし家が3区じゃなかったら、真っすぐな瞳で不正や抑圧を追及できたろうし、左翼運動の王道にすっぽりはまれたと思う。 高校生でありながら派手な活動をしていたので、周りからエネルギーの塊だと思われていたけど、現実は抑圧と不正を認めてしまう自分が許せなくて、心の内側の葛藤に消耗するばかりの暗い日々を過ごした。 高2年の時、1限~6限まで一度も顔を上げられずにつっぷしていた日もあった。今思えばうつだった。病名は「左翼になりたくてなれない」鬱。 葛藤さえなければ、もっと大きな運動を起ち上げられたんじゃないか。 現役学生活動家の金澤怜さんや檜田相一君を見るとそのまっすぐさに羨望を禁じ得ない。

左翼の大義をまっすぐに信じることができたら、最終的に挫折するにしろ、今の何倍もエネルギーに溢れていた自分はどこまで上りつめられただろう、ないものねだりでそんな事を考える。 そんな自分が左翼を辞めた経緯はこれまで、tweetで散々書いてきたから、ここでは触れない。 気が向けば草稿はあるのでBLOG化する。 【余談】イジメのお陰でつかめた左翼のスピリッツもある。 運動の何が気持ちよかったって、年下に威張らず、先輩に対し対等な関係だった。面子を気にする関係がどれほどクソかは登校班で思い知った。

■タイムマシンで10代の自分にアドバイスできるとしたら この葛藤は35年経った今なら種明かしできる 10代の自分が苦しんでいたのは「高度資本主義」「グローバリズム」「監視社会化」による、青年層の家畜化、孤立化だった。 当時これらを撃つ言葉は西日本の100万都市には届いてなかった。(都心の大学にはあったと思う) 反抗を組織するには王道の左翼理論は失効済の時代だった。 80年代は「ポリコレ」の走りが運動圏を覆っていた。令和の今と80年代反体制ノリの違いを説明する。当時のノリは一言でいえば「権力を取ってないポリコレ」だった。(権力がないから罪は軽かった)

被害者としての日本ではなく、加害者としての日本を問う運動が主流で、弱者に坊主総ざんげする血債主義の暗鬱さが、運動圏を覆っていた。 そんな暗い運動が青年を魅了するわけがない。 運動が盛り上がるのは「被害者としての自分の解放」の可能性がある時だ。勿論、当時も反管理教育などの東者としての自己の発見はあった。しかし反管理教育運動では学校当局との闘争が焦点となる。そんな運動に可能性はない。 何故か? 一番の敵は当局ではない。戦う君を一番苦しめるのはものいわぬクラス大衆だからだ。 だが家畜どもに決起を呼びかける闘争は盛り上がりにくい。学校の外に出て面白い同世代を探した方が楽しい。 70年に運動が盛り上がったの活動家はモテたからさ。80年代も今も活動家をやっても可愛い女の子は応援してくれない(男の活動家の場合) とはいえ同級生がクズだからといって、不特定多数への呼びかけを放棄すると運動は腐敗する。話がわかる少人数でかたまってしまうと、それがどんなに優秀な人同士でも時間の経過ともに血が澱むからだ。 ビラを撒くことは、自分の表現力を鍛えるし、人民を知る機会となる。そして率は少ないけど、理解者は必ず現れる。 もしタイムマシンに乗って80年代の自分に会えたらどうアドバイスするか。 ここから口語体で語っていきたい。

「お前には思いやりの心はない。アンチのハートは諦めろ。運動したいなら自分のエゴをまっすぐ肯定しろ」 「原発反対!いのちが大事!」というスローガンがあるよな(80年代後半に大流行した) これではお前は戦えない 「原発反対 俺様の命が大事」だ 「原発を建てたいなら俺様に一言話すのが筋ってもんだろう」 反原発運動に関わるならこの立場でやれ これを「革命的オレ様主義」という。 ( → 革命的俺様主義については近々資料を公開する)

今でこそ俺は頂き女子りりちゃんなど一部の弱者に共感を抱く思いやりの心が育ってきた。 しかし若い頃のお前に弱者との連帯は無理だ ええかっこうしいは辞めろ (と何十時間もかけてコンコンと諭す) 自分の感覚を徹底して信じろ。自己否定は絶対にするな。 抑圧民族上等。走資派に開き直れ。 一貫したポリシーが築ければ確かに格好いい。でも諦めろ。自分の中の矛盾を認めろ いろんな人と会え。そしてエゴむき出しの自分をさらせ。 そうすればそんなお前をわかってくれる同世代がきっと現れる。 そういう連中を集めて徒党を組め。 分裂するかもしれない。そしたらまた残った仲間と一緒にメンバーを集めろ。 多数派から愛される事は諦めろ。お前は劇薬だ。少数のファンと、多数の敵が生じる。 お前に反発する連中のそれは生理的なものだ。お前がどんなに努力してもその気持ちを変えることはできない。 左翼運動、権力奪取を目的とした運動を疑え。 できるだけ距離を取れ。 関西に千坂恭二という世捨て人がいる。会ってもいいが、半端ない影響を受けるぞ。覚悟しろ。 自分の頭で考えろ。 革命家になってもいい 起業してもいい ヒモになってもいい ニートしてもいい とにかく倫理感は捨てろ、 お前の倫理感はイジメによって崩壊済みで、再建するのは不可能だ。 他人を搾取してもいい。 だけど自分が今搾取していることを自覚して搾取しろ。 行動して考えろ そして考えて出た結論を行動で試せ 地図の無い場所に道を切り開くのがお前の最大の強味だ。 そしてお前は人を巻き込んでムーブメントを起ち上げる時に一番の高揚感を感じるだろう。 ちなみにお前の切り開いた道に、後に続くものはいない。 お前が通った後はやがて藪に戻るだろう。


わかってないことに対しわかったフリをするな。 いつまでも確信がもてないせいでスタートできなくても焦るな。お前は必ずいつか飛び立てる。

お前は一度スイッチが入ると後戻りできないところまで活動してしまう。 他人の思想や理論にのって運動を作る時はくれぐれも慎重に。 特に惚れた女性が訴えてくる行動には特に注意しろ。 女性が絡むとお前は理性が著しく曇る。

■今「怒り」について思うこと

お陰様で青年時代よりは怒れるようになった。 年の功で社会の構図が見えるようになってきたしね。 特にコロナ緊急事態宣言によって、自分が立つ位置が明確になった=反自粛 何十年もかけて育ててきた大事にエゴ そのエゴを妨害した自粛強要に俺は明確な怒りを抱いた。 走資派の自分は今もいる。 「反戦」のスローガンは今だに叫べない。 けれど、10代当時の煮えくり返るような心の葛藤は 「逮捕されたくない自分」「自由に表現したい自分」というエゴ同士の対立に単純化してしまった。 現在の心は平安だ。 9月16日現在、外山恒一氏に怒りはあまりない。 このBLOG記事で鬱発症をカミングアウトした直後、外山氏から「一生寝込んでろ」と呪いのメールが届いた時はさすがに怒りが溢れた。 自分は鬱のメカニズムを深く学んでいる 鬱のステージ3(=3倍モード)になれば、モノの感じ方は変わり「別人化」という現象が発生する。 外山氏を遺伝子で動く生命体として見れば、彼もまた遺伝子の奴隷として、あのような言動にでていることがわかる。仕方がない。 今後、彼から具体的な迷惑をかけられればその時は怒るだろう。 こちらも遺伝子のコードに従って生きているので。 あんなに熱い怒りを求めていた自分だけど、今は怒りからは可能な限り解放されたい。 だってやたらとエネルギー食うんだもの。 自分に残された時間もエネルギーも限られている。 無駄なエネルギーを使わず。一番やりたい行動を粛々と進めたいよね。 全てのエネルギーを日本青年運動の再生のために! 【完】

 
 
 

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