運動とは何か?
「運動」というと、「軍事力強化反対」「パレスチナ支援」「ワクチン反対」などといった狭義の政治課題をテーマとした活動を想像する方が多いでしょう。
もしくは「立て看板規制反対」など大学や職場での、表現の自由をめぐる問題でしょうか。
学対が考える政治活動はもっと広義で、生活の不満の解決に直結するものを想定しています。
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学校がつまらない。友達がなかなかできない。
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彼女ができない。
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朝起きるのが辛い。自分のやりたいことがみつからない。
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仕事や副業を通じて自己実現するのが当たり前の雰囲気に馴染めない
これらを自分一人の問題と考えずに
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同世代に共通する問題として捉える
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共通の目標を達成する為に徒党を組む
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見ず知らずの他人を巻き込んでビッグなムーブメントを企む
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顔と顔をつきあわせて活動する。オンラインで完結しない
これを私は「運動(青年運動)」と呼んでいます。
実は問題の解決をたくらむ運動は、とっても面白いエンタメなのです。
が、このエンタメの衰退が著しい。
ほとんどの若い人は「運動」って、発想も概念も知りません。
社会を変えることは簡単ではありません。
しかし、運動を通じて、自分の居場所を見つけたり、生きることが楽になるなどの効果は十分に達成可能です。
運動は覚悟を決めて入る世界ではありません。
仲間同士、冗談をいいあってるうちに「やっちゃう?!」の延長で取り組んでも全然構いません。
とがいえ、遊びだからいい加減でよい訳ではありません。
遊びだからこそ、真剣に取り組むことで大きな充実感が得られるのです。
外山恒一の単行本「政治活動入門」に、運動についてのわかりやすい説明文があります。以下に重要な部分を引用しました。
読むのに3分程度かかりますが、運動についての理解がより深まるのでぜひ通読して下さい。
政治活動とは何でしょうか。
多くの人は、政治活動と聞いてまず選挙を思い浮かべるでしょうが。
もちろん政治活動と選挙運動はイコールではありません。(中略)
ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といった、いわば”生きがたさ”のようなものを抱えてしまうものです。
Aさんが”生きがたい”理由は、突き詰めていけば結局二つしかありません。Aさん個人の資質や性格に問題があるか、社会や時代の状況に問題があるか、のいずれかです(中略)
後者である場合には、これはもうAさん一人の努力ではどうにもなりません。
もちろん、たいていの場合、Aさんが”生きがたい”のは、100%Aさん自身に問題があるとか、逆に100%時代や社会に問題があるということはありません。両者の混合の比率は人それぞれでしょうが、たいていは両方の要素を含んでいるものです。
たいていの人は、何らかの”生きがたさ”を抱えており、それを何とかしたいと日々試行錯誤しているものです。その”生きがたさ”をもたらしている原因のうち、(中略)
時代や社会がおかしいために抱えてしまっている”生きがたさ”は、個人の力では絶対に解決できないのです。
しかしすべての個人は、この同じ時代や社会の中に生きているわけですから、ある個人が抱えている”生きがたさ”のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。
この努力が、要するに「政治活動」なのです。複数の個人に”生きがたさ”をもたらしている時代的要因や社会的要因を取り除くということは、結局は時代状況や社会状況を改変するということです。
「政治活動」とは、状況を自らの”生きがたさ”を多少なりとも減らす方向で改変するために有効であるか、有効であるかもしれないと思われることを、実行に移すことです。ビラまきでも集会でもデモでも、あるいは選挙運動への関与でも、有効だと思えばやればいいし、有効でないと思えば別の方法を考えればいいのであって、そうした努力の総体が、「政治活動」です。
また、それに先立って、自らの抱える”問題”のうち、どこからどこまでは自分に原因があり、どこからどこまでが社会に原因があるのかを、深くかつ冷静に分析してみることや、あるいは時代や社会に原因があるとして、漠然と「社会が悪い」というのではなく、具体的に「社会のここが悪い」と言葉で説明できるようにすることなども広い意味では「政治活動」のうちですし、もちろん、そうした努力自体を、自分一人ではなく誰かと共同でおこなうことも可能です。(中略)
政治活動とはつまるところ、自分の不満や苛立ち、周囲への違和感を形にすることです。「形にする」のかなりの部分は「言葉にする」ということです(大幅に略)
政治活動をおこなうのなら、実践がメインであることを忘れてはいけません。勉強は、実践の合間に、ヒマを見つけてコツコツやればいいのです。(大幅に略)
歴史を勉強すればよく分かることですが、多くの場合、政治と芸術、そしてさらに学問の運動は、互いに密接に結びつきながら、総体として一つの大きな運動を形成するものです。
これらがバラバラに切り離されているのは日本だけで、しかも日本においても、それはたかだかここ30年ほどの特殊な状況であるにすぎません。(中略)
1980年以前に成人した世代に属する、アカデミズムやアート・シーンの知り合いに尋ねてみれば分かることですが、彼らが学問や芸術の世界で試行錯誤を開始した若い頃には、必ずその身近に、同世代の熱心な政治活動家がいたはずです。
そして多くの場合、その政治活動家の友人知人に対して、学者や芸術家の卵であった彼らは、当時いくばくかのコンプレックスを抱いていたはずです。(中略)
というのも、人が学問や芸術の道を追求する動機も、たいていはその時代や社会に対する疑念や違和感であるからです。(中略)
政治活動は、それらの疑念や違和感を直截に解決しようとするものであります。
だから、学問や芸術などという、しちめんどくさい、回りくどい方法ではなく、政治活動をやる方がいいに決まっているのです。
にもかかわらず、彼らは「あえて」、政治活動ではなく、芸術や学問という別の道を選択したわけです。
政治活動は、できるだけ多くの諸個人にそれに参加させることを、必然的に追求します。
当然、学問や芸術などという、目的のない云わば自己満足的な活動にうつつをぬかしている友人・知人に対して、政治活動家は、そんなものはほどほどにして君も我々の政治活動に参加しろ、と機会をとらえてはせっつくことになります。
政治活動家の云っていることの方が正しいことを、学者の卵や芸術家の卵たちもよく分かっています。
しかしそれでも彼らは、まあたまには説得に応じて政治活動の現場に顔を出すこともあったでしょうが、基本的には自分の足場を学問や芸術の世界に置くことを「あえて」選択したのです。
状況への疑念や違和感という本来のモチーフからすれば、政治活動にどっぷり浸かるのが最良の選択肢であることを充分にわかっていながら、「あえて」そうしなかったのですから、彼らはなぜ自分がそのようなヘンテコな選択をするのか、徹底的に自省しなければならなかったはずです。
現在の学問や芸術が概してつまらないのは、この自問自答を欠いているからです。学問や芸術というのは本来、政治活動をやらずに「あえて」選択する道なのです。
現在、学問や芸術の道に進もうとする人たちはこの「あえて」性が欠片もありません。
「あえて」性のない学問や芸術に、存在意味はありません。
むしろ学問や芸術の道に心ひかれている人は、今は「あえて」政治活動を始めるべきでしょう。
魅力的な政治活動家となって、学問や芸術などという自己満足にうつつを抜かしている同世代を脅かすようにならなくてはいけません。
そして結局は、そのことが彼らの学問や芸術を本当に力あるものとして再生させることにもつながるのです。少なくとも自分自身に関しては、このまま緊張感のない学問や芸術の道へ進むことを、ぐっとこらえようではありませんか。学問や芸術への転身は、政治活動に”挫折”してからでも遅くはありません。(以下、略)
結論
活動家は
尾崎世界観より
あのちゃんより
偉い!!