top of page

【連載】外山恒一との付き合い①

  • tp278442
  • 2024年12月18日
  • 読了時間: 11分

 俺は指導する若い人に、「自分のキャラを伝えろ」、「アウトプットの量を増やせ」とやかましく伝えている。とは言ってもいきなりは難しいだろうから、まずは自分が手本を見せるべきだろう。


1.外山との出会い


 外山のことを最初に認識したのは、高校1年生の初冬だった。ある日図書館にいたら、教師と生徒(社会部所属。なお、うちの高校の社会部は、立体地図を作るだけの部だった)が何やら封筒の中身を巡って話していた。どうやらその封筒の中には、「外山恒一」という福岡の高校生がしたためた、「社会問題に関心があるなら連携しよう」という内容の手紙が入っていたらしい。


 興味を持った俺は、帰宅後に手紙に書いてあった番号に電話を掛けた。電話に出た外山に「手紙読んだよ」と伝えると、彼は自分の計画について語り始めた。外山は高校生だけの政党を設立するという。その名も「本当の自民党」。冬休みに自転車で九州一周遊説旅行をするともいう。それを聞いて既にラジカル道を歩み始めていた俺は、なんとヌルい奴かと思った。とはいえ、このまま無視するのも良くない気がして、「本当の自民党」をやっていく上で有益そうな情報を色々教えてやることにした。

俺「遊説中の宿泊は?」

外「未定」

俺「今からメモ取れる?

まず中津には松下竜一という火力発電に反対してる作家がいる。彼に高校生活動家だと名乗れば宿を手配してくれる。次、大分には…」


 昔も今も俺のやってることはずっと同じだ。つまり、無料で使える施設の、仲間に対する情報共有。

俺「九州だけじゃなく広島にも来なよ。大分からフェリー出てるし」

「広大の活動家がやってるフリースペースに泊まりな。仲間を集めて歓迎会をしたげる」


 「本当の自民党」などと名乗る田舎者にはガツンと一発かまし、時代の先端を思い知らせんといかん。そういう気持ちでやっていた。今振り返ると、ずいぶんませてて偉そうな高校一年生だったと思う。

 もっとも当時の俺は、色んな運動に顔を出し耳年増だっただけで、学内学外で具体的な闘争を担っていたわけではなかった。「朝日ジャーナル」という赤い週刊誌に掲載された運動情報をひたすらメモしていただけ。すぐに化けの皮が剥がれるのだが、それはまた別の話。


 さて、冬休みが始まってすぐの雨の日、ずぶ濡れの外山が広島に到着した。ただフリースペースは人が少ない日で、歓迎会には俺ともう一人しか集まらなかった。が、その一人というのは青生舎(保坂展人が率いていた80年代の青年運動)の全盛期である代々木時代を知り、後にオウム真理教に入信するN君だった。

 

 俺もN君(18歳)には、いつも詰められていた。

N「学校解放?高校生運動?借りてきた言葉ふかしてんじゃねー!

てめえの言葉で語れや」

当然、外山に対しても追及が雨あられのように降り注ぐ。

N「ほんとの自民党ww 九州遊説? 俺にわかるような言葉で語ってくれやー」


 Nの追及に後半、外山は完全に言葉を失っていた。広島~博多230キロ、しかも後半は雨中。乗ってきたのは本格的なスポーツタイプの自転車ではない。身体と精神は繋がっている。しかも高校生の政党設立計画は学校にバレ、家に電話すれば「連れ戻しにいくから、今どこにいるか言え!」

 もう外山のライフはゼロだったろう。


 俺は外山が広島に来ると聞いて、市民運動で知り合った、FM広島の女性記者に出演交渉をしていた。交渉は成功し、外山の出演日は到着翌日と決まった。彼の計画がとにもかくにも公共の電波に乗るわけだ。


 言ってしまえば、政党設立計画なんてしょせん高校生の思い付きだ。準備するうちにその無謀さは十分自分でもわかっていたはず。でも、その中でラジオ出演が彼の心の支えになっていたはず。ラジオ出演は、何もやらせてくれない学校にパンチ一発食らわせることだから。


 無事ラジオ出演は終わったが、FM局から出てきた外山を両親の車が迎えに来た。恥ずかしかったのだろう。外山は親が来るという話をぎりぎりまで隠していた。


 いや、九州一周するって言ってたのに、日和るんかい!!!


 もちろん九州は広い。それだけでなく、県境はだいたい急峻な山道。長い先の道のりや、遊説旅行の実効性も考えていかなきゃならない。こういう事情を考慮すれば中止は当然だが、当時16の俺はそれがわかるほど大人じゃなかった。以後、しばらくは「外山はなんか違う」と判断して、距離を置いた対応を取ることになる。


 ちなみにFM広島の女性記者というのが、とてもきれいな女性だった。外山の出演交渉をしたのも、そのお姉さんに接触する口実だった気がする。そしてこの出演がなければ、外山も遊説に出発していなかった可能性が高い。

 俺たちが出会ってなければ、日本の社会運動の歴史が変わっていたかも、と考えることは大げさに過ぎるだろうか。歴史の原動力はだいたい異性、なのかもしれない。


2.新聞会議の分裂


 外山が福岡に帰ってから3か月後、当時新聞部所属だった俺は、全国高校生会議の前身である「高校生新聞編集者全国会議」に参加する。ここで俺は同世代のすごい奴に大勢会った。特にリーダーのS美に「一緒にやろうぜ!」とオープンに手を差し伸べられて、心を鷲掴みにされた。好きな異性もできた。それで空気が入って帰郷後、学内や地域で色んなことをやった。


 新聞会議は夏に関東会議を開催していて、仲間と好きな人が恋しくてたまらない俺は関東在住でもないのに参加した。そしてその関東会議に外山と苫米地も招待した。ただ、感動に溢れてた初回の会議とは違って、2回目はそうでもなかった。


 会議は8月上旬だったが、7月下旬には福島・南相馬の好きな子の自宅を訪ね、何泊かした。父親も反原発派で歓迎されたが、恋は成就しなかった。そのため、それからすぐには東京に行かず、青生舎が出してた学校解放新聞の東北の拠点に連絡して、同地の高校生活動家を探す傷心旅行に出かけた。


 その頃外山はというと、既に学校は中退していたものの、出版社に営業をかけ、高校での騒動の顛末を出版することに成功していた。出版に際して俺が外山に口うるさく言ったのは、本に外山の連絡先を明記するだけではなく、全国の闘う高校生の連絡先を掲載しろ、ということだった。出版は活動家の結集に役立たないのなら意味がないからだ。


 俺は昔から運動のインフラ整備について、過剰な関心がある。自分自身がリサーチ好きだし、インフラを使って活動領域を切り開いてきたから、後進のためにインフラ整備はやる。だが後に、「学対は道のないところに道を作るが、あまりにも獣道過ぎて、学対が通った後は誰も通らない」と評されたこともあった。


 さて新聞会議に話を戻すと、その全国会議については、開催5か月前から首都圏の現役世代(高1、高2)が「今年の会議はやるべきか?」という、意志一致のミーティングを開始するのが慣例になっていた。民青や党派の集会とは違い、定期的な開催が自己目的化されていないのだ。そしてこのミーティングで、S美が爆弾を投入した。

「新聞部員の枠取っ払おうよ」


 もともと新聞会議は進学校の生徒が多く、大学進学がデフォルトだったが、この時期から中退組が増えていた。S美も既に高校を中退していた。高校空間に少数派を受け入れる懐の広さがなくなっていたからだ。そうである以上、このS美の提案は魅力的とも思えた。しかし、新聞部の枠を取っ払うと、仲間意識や議論が成立しなくなる、と考えたメンバーも多かった。


 こうした事情に加え、人間関係の対立もあり、会議は結局分裂開催されることになった。ここでS美派が開催しようとした新会議が、後に「全国高校生会議」となる。ちなみに、1986年ごろ50人ほどいた首都圏の実行委員会メンバーは、この時期には7~8人になっていた。


 ただ、この事実を俺が知ることができたのは、S美に「来春の会議はどうなりそ?」と電話したからだった。基本、中央の人間ってのは地方に情報を流さない。


 俺はS美に、直ちにミーティング議事録を送るように依頼した。これが1988年の11月30日。その後12月2日に、俺が昨年の参加者に分裂したという情報と、アンケートを郵便で送付。そして12月20日ごろに、アンケートの回答をまとめた40頁の冊子を作成し、全国発送。個人情報保護の概念がなく、会議参加者の住所録作るのがデフォの時代だった。


 アンケートの回答は外山からも送られてきたが、その内容が俺には許せなさ過ぎて、ページ内に外山の批判を書きまくって印刷した。編集者として一番やってはいけない行為だが、たぶん外山じゃなかったら俺もそこまでの越権行為はしなかった。逆に言えば、それくらい当時の外山には神経を逆なでされた。


 冬休みは全国高校生会議のミーティングに参加するために上京した。とはいえ、俺が東京に行ってもやることはない。ただ、少数派に転落したS美派を盛り立てねば!という熱い思いはあった。そこで、少しでも仲間を集めるために、東京に直行せず、東海道の高校生に会議結集を呼び掛けて回ろう、と考えた。そしてその旅に、犬猿の仲だった外山を誘った。正直、このころはS美が好きだった。


3.活動家発掘ヒッチハイクツアー


 まず、遠回りになるが、いったん福岡で外山と合流。革命家の母の手料理をごちそうになった。その後、前回会議においてS美派で、かつ10人も参加者のいる長崎工業高校新聞部をこちらに惹きつけるべく、更に西へ向かった。ちなみに、この時初めてヒッチハイクを行った。さすがに2人で1週間キセルは無謀だと思ったからだ。


 犬猿の仲だったはずの外山との旅行は意外と楽しかった。ヒッチハイクの道中、運転手の悪口やら、乗せてくれない車に対し「反革命」とか「ナンセンス!」とか好き勝手な痛罵を浴びせるのが楽しくて、ずっとクスクス笑いをしていたのを覚えている。馬が合わないのは運動論だけだったのだ。


 「人民新聞」をご存じだろうか?日本共産党から分派した中国派で、その拠点が下関にあった。彼らの2世の中高生が10人ほど、寮で集団生活をしていた(まさに毛派)。そこを訪れた俺たちに、彼らはソ連赤軍の歌を合唱して歓迎してくれた。もちろん、こちらもお返ししなきゃならない。


 外山はギターでブルーハーツを奏で、俺はヘッドスパンキングでリンダリンダを絶唱。ぶったまげた彼らの顔。歌声運動と80年代パンクが交錯した一夜だった。あと、彼らから勧められた、「鋼鉄はいかに鍛えられたか」という本は意外と面白かった。


 大阪と京都も訪れたがあんまり記憶にない。名古屋は当時非公然の高校生徒会連合を取りまとめてた矢部史郎と、制服があるのに私服通学して新聞記事になった明和高校の連中、岡崎の民青5人組と交流した。岡崎の連中がスノッブかつハイセンスで、民青にも色々いるって認識を改めた。


 ネットも携帯も検索っていう概念も当然なかったから、どこに行くべきか、左派系の刊行物は隈なく目を通してた。「浜松の反原発集会で高校生バンドが演奏」って記事を見つけたら、東京の反原発団体に浜松の団体連絡先を聞き、浜松にその集会の関係者を聞き、それでもわからなかったら静岡の団体から辿ってた。


4.高校生活動家の日常


 1つ1つの出会いが貴重だから、刊行物を定期的(平均月1)に送って関係が切れないようにしてた。我ながら重度の粘着質だったと思う。金については、新聞部の部費を全て切手代に回し、親の趣味が切手集めだったからパクった。また、過去の新聞会議に繰越金がないかを調べ、あった場合後継団体と言い張って残金を受け取ったりもしていた。


 あと毎日電話ばかりしてた。電話代は月3万を超え、親はカンカン。電話機のある玄関で蚊の鳴くような声で電話する日々。タバコを吸わなかった父が喫煙し始めたときは、さすがに申し訳なく思った。S美に電話するときだけは公園の公衆電話に向かう。が、風来坊の彼女はめったに家に帰らない…


 ここまで粘着質な活動はしていなかったが、当時の外山も「一度連絡がついた仲間には、新たな活動を起こすときは必ず連絡する」という作法は共有していた。一時的に活発に活動する高校生はいても、連絡の徹底ができる高校生は少ない。だから犬猿の仲でも外山と絡まざるを得なかった。


 SNSは情報発信すればフォロワーが読んでくれるはずという仕様になっている。確かに便利なんだけど、時には個別LINEやDMで掘り起こしたり、通話で細かなニュアンスを共有するのも大事。なぜなら運動=他人に踏み込んでいくことだから。踏み込みすぎを恐れてては踏み込む技術は鍛えられない。


 令和の運動に感じるのは刊行物のクオリティーの高さだ。我々はA4用紙に悪筆の文章を書きなぐったものをそのまま印刷してた。字体を見るだけで誰の文章かわかった。クオリティーが高すぎると、文章もお粗末なものは出せなくなる。が、余所行きの格調高い文章が人の心を動かせるのか?


 高校生会議の機運を盛り上げるため、高2の12月~3月で4回雑誌(1冊約60ページ)を発行した。印刷に1円も使う気はなかったから、築いた人間関係をフルで辿り「今回だけだぞ」と言われながら、印刷機を使わせてもらった。自転車にB4用紙2500枚を積むと、タイヤがめり込む。


 覚えてるのは印刷機が故障し、必死に修理を見守ったこと。深夜に標高150mの峠を越えた時の泣きたくなるようなペダルの重さ。この1漕ぎが日本革命のため、またS美に素晴らしい同志を紹介するためだと思って踏ん張った。レベルの低いヒロイズムなんだけど、覚悟は鍛えられた。


 雑誌発行は印刷だけじゃなく、紙折り、ホチキス止め、更に封筒に収めて宛名を書くという一連の作業が必要。仲間も手伝ってくれたが、皆受験するからフルタイムではない。俺が雑誌を投函するのが1日遅れたら、日本革命の歴史が変わってしまうかもしれない。そう思ってドーパミンを流してた。


 いつのまにか俺のエピソードばかりになってしまった。今から考えると、俺がやってたことの99%は、躁体質の持ち主ならではの勘違い=青春の暴走に過ぎない。だけど、運動の高揚には、カンチガイストの暴走が必要だ。躁人間の思い込みからくる熱血は、やがて周りに感染し集団化していく。


(「外山恒一との付き合い②」に続く)

 

 

 


 


 










 

 
 
 

コメント


bottom of page