「主義」「思想」がそんなに大事か?
- tp278442
- 1月29日
- 読了時間: 5分
更新日:9月22日
あえて言います
思想はそんなに大事でしょうか?
私はそれよりも新しい運動を志向する人達が1ヵ所に結集し討論する事が大事と考えます
ここで外山がtweetしているのは、外山主催の教養強化合宿が、私と外山が1989年に立ち上げた全国高校生会議と同じ機能をはたしている事への感動でした
誰かこのような討論合宿(3泊4日)を企画しないものだろうか?
わかりやすくイメージするなら、教養強化合宿から、外山の講義を引いたイベント
集まったメンバーで何らかの決議や運動方針を導き出す必要はないと思う。
主催者は時間を気にすることなくに議論可能な時間と場所だけを提供するだけでいいのです。
このような合宿は運動の規模感を視覚的に把握する機会にもなるでしょう
全国高校生会議の参加者が共有していたのは「思想的な一致点、結集軸」ではなく、「討論の作法(作風)」ただそれだけでした
時間の制約を取っ払って2~3泊泊まり込みで話す
それが生みだす効果には計りしれない力がありました
誰もが学校や職場では孤立してても、俺は「会議派」だという帰属意識と求心力が生じました
■運動の高揚するメカニズム
党派が年1回「全国集会」をやるのも、それに似た効果を狙っているから
つまり、周りが「主義」を1ミリも理解しない人間ばかりだと、自分の思想は絵に描いた餅なんじゃないかと醒めた気持ちになります
が、同じ思想を有する仲間で埋められた空間で肩組んでインター歌うと空気が入る
「俺は一人じゃないんだ!」
もう1年頑張れる
AさんとBさんが熱く議論していて、Cは横で見てる
それでCに熱が伝わります
イベント終わったら人生で一番フッカルになり易い
この現象の種明かしをすると
居場所がなかった人間に居場所ができると「愛される自信」がつきます
その居場所の雰囲気が熱いと、熱い振る舞いをしないと仲間外れになるから、積極的になる
イベント単体だと長持ちはしないけど、このようなイベントが連続的に続くとどうだろう?
メンタルが弱い人間は脱落しますが、強い人間は醒める事なく、元気が長持ちします
これが運動が高揚するメカニズムです
とっても雑な事をいうと、キャラパワーある人間を一ヵ所に集めると運動は始まり易い
■メンタルヘルスの重要性
令和の社会運動の難しさは、キャラパワーある人間に「軽い鬱」以上の人間が多く含まれている事です
「軽い鬱」「鬱」状態の人間は、心の基調低音が不安やネガティブ感情に彩られています
他人の反応に脅かされてしまうから、攻撃的になる
結果的に関わった人間を「軽い鬱」に引きずり落としてしまう
鬱は治らない病気ではありません
休息さえ取れば、ノーマルモードに戻ります
寛解(=鬱が完治すること)してから運動に関わってくれたら良いんですけどね
理論や人間性の問題もありますが、軽い鬱以上の人を一定期間運動に距離を置いてもらう事ができれば、運動の発展は約束されたようなものです
悲しいかな
運動圏には「軽い鬱」以上の罹患者が大勢います
運動関係者の総合的な能力向上も必要です
少数派の運動界隈はメンタルやられてきた方が大半なので、能力が十全に開発されてない場合が多い
単純に機会が不足してるせいなんで、機会さえ提供されたらグングン伸びます
■まずは寛解が最優先
体制側は彼らの方法で青年を鍛え能力開発しています(科学の知見を活かしての英才教育、「問題発見し解決できる人材」育成、アスリートへの訓練etc)
それに対し過激派の運動は、青年の「自治能力」を向上するべく鍛錬するのが目的といえましょう。
支配的イデオロギーに疑問を持つ能力を育て、自分の頭で考え行動できる人間形成
脱権威的な人間関係の中で、鍛えるべき点は鍛える
フラットな人間関係を言い訳に、他人に踏み込まないのは間違いです
社会を変えたいなら、体制的な価値観を半ばアンインストールするよう迫る必要があるし、戦士としての能力開発は必須です
但し一様に鞭を振るえばよい訳ではない
鞭打ってよい相手と、ケアが必要な相手を見極める力が必要
昔は単純でした
「軽い鬱」「鬱」の運動関係者には、寛解してから戦線復帰して貰えるように説明して納得して貰う必要があります
中途半端な状態でズルズルと関与するのは、運動にも当事者にもマイナス
が
運動がその人にとって大切な居場所になってる場合、隔離措置の徹底は難しい
私も引き出しが不十分な領域です
暇な学生ならともかく、仕事に追われてる人は、休息を取らせても回復効果が僅かしか得られない場合があります。
かといって、仕事を変えたり辞めるにもエネルギーが必要です
悲しいかな
社会には新しい活動をやればやる程ジリ貧という方がいらっしゃいます
そういう方が界隈にいた場合,処方箋はありません
■情けは人のためならず
運動が大きくなると、救いを求める人もよってきます
界隈の方は優しい人が多い
社会の抑圧の犠牲者を名乗る方に頼られると親身になりがち
が「情けは人の為ならず」なんですよ!
だめ系の運動は特にその傾向が強いように思います
少なくとも自分は弱者救済は苦手です
世の中には弱者救済をミッションとしてる方が沢山いるから、そちらに誘導しようと考えています
役割分担は大事です。
■主義はあくまで意匠の一つ
60年安保当時の東大駒場自治会委員長=西部邁はその著作「センチメンタルジャーニー」の中で、自分が安保闘争を戦った理由を「大好きな先輩達が日共民青に苛められていたから」と書きました。
運動のリーダーが何と無責任な言い草だと思ってたけど、最近は妙に納得している
人がある党派(含むノンセクト)を選ぶのは、出逢いの巡り合わせ次第
俺が高校生会議の一派に加わったのはS美がいたから(註:ブログ記事「外山恒一との付き合い①」参照)
もし広島の中核派に素敵なキャラクターがいたら、中核に入っててもおかしくはない。
だから自分はあんまり主義について考える事に一生懸命になれない
主義は意匠の一つくらいにしか思えない
確かに組織には結集軸は必要だ
しかし大それた世界観を構築する必要はない
いい奴が集まり易い作風
いい奴が辞めにくい作風
それで十分じゃないか
コメント