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外山氏による「駅前アジトが対しイジメの構造を作っている」との告発に応える



外山氏は皆で俺の陰口をいってるイジメの構造と言うけれど、それは君が紛争の列度を上げた初夏以降の話だ。それ以前、私達は外山氏を話題にする時はできるだけ公平に評価してきた。
外山氏にも短所はある。だけど「短所は長所」

その痛い部分は、外山氏の優れた資質の裏返しだと俺は常々フォローしてきた。アジト常連に聴いてごらん。
開戦前も調子にのってディスったことは0じゃあないさ。でもその後でバランスを取る事は意識していた。

少なくともアジトに良く来る合宿参加者は完全に君のことを悪人と思っていなかった。
君の喋りは面白いし、そのキャラクターを愛されているよ。

 

外山氏が「潰す」を公言して以降は別さ。
私達から外山氏への愛を奪いきったのは君だ。

外山恒一の単行本「政治活動入門」に、運動についてのわかりやすい説明文があります。以下に重要な部分を引用しました。

読むのに3分程度かかりますが、運動についての理解がより深まるのでぜひ通読して下さい。


政治活動とは何でしょうか。

多くの人は、政治活動と聞いてまず選挙を思い浮かべるでしょうが。

もちろん政治活動と選挙運動はイコールではありません。(中略) 

ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といった、いわば”生きがたさ”のようなものを抱えてしまうものです。

Aさんが”生きがたい”理由は、突き詰めていけば結局二つしかありません。Aさん個人の資質や性格に問題があるか、社会や時代の状況に問題があるか、のいずれかです(中略)

後者である場合には、これはもうAさん一人の努力ではどうにもなりません。

もちろん、たいていの場合、Aさんが”生きがたい”のは、100%Aさん自身に問題があるとか、逆に100%時代や社会に問題があるということはありません。両者の混合の比率は人それぞれでしょうが、たいていは両方の要素を含んでいるものです。
たいていの人は、何らかの”生きがたさ”を抱えており、それを何とかしたいと日々試行錯誤しているものです。その”生きがたさ”をもたらしている原因のうち、(中略)

 

時代や社会がおかしいために抱えてしまっている”生きがたさ”は、個人の力では絶対に解決できないのです。
しかしすべての個人は、この同じ時代や社会の中に生きているわけですから、ある個人が抱えている”生きがたさ”のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。

この努力が、要するに「政治活動」なのです。複数の個人に”生きがたさ”をもたらしている時代的要因や社会的要因を取り除くということは、結局は時代状況や社会状況を改変するということです。

「政治活動」とは、状況を自らの”生きがたさ”を多少なりとも減らす方向で改変するために有効であるか、有効であるかもしれないと思われることを、実行に移すことです。ビラまきでも集会でもデモでも、あるいは選挙運動への関与でも、有効だと思えばやればいいし、有効でないと思えば別の方法を考えればいいのであって、そうした努力の総体が、「政治活動」です。
また、それに先立って、自らの抱える”問題”のうち、どこからどこまでは自分に原因があり、どこからどこまでが社会に原因があるのかを、深くかつ冷静に分析してみることや、あるいは時代や社会に原因があるとして、漠然と「社会が悪い」というのではなく、具体的に「社会のここが悪い」と言葉で説明できるようにすることなども広い意味では「政治活動」のうちですし、もちろん、そうした努力自体を、自分一人ではなく誰かと共同でおこなうことも可能です。(中略)

政治活動とはつまるところ、自分の不満や苛立ち、周囲への違和感を形にすることです。「形にする」のかなりの部分は「言葉にする」ということです(大幅に略)

政治活動をおこなうのなら、実践がメインであることを忘れてはいけません。勉強は、実践の合間に、ヒマを見つけてコツコツやればいいのです。(大幅に略)

歴史を勉強すればよく分かることですが、多くの場合、政治と芸術、そしてさらに学問の運動は、互いに密接に結びつきながら、総体として一つの大きな運動を形成するものです。

これらがバラバラに切り離されているのは日本だけで、しかも日本においても、それはたかだかここ30年ほどの特殊な状況であるにすぎません。(中略)


1980年以前に成人した世代に属する、アカデミズムやアート・シーンの知り合いに尋ねてみれば分かることですが、彼らが学問や芸術の世界で試行錯誤を開始した若い頃には、必ずその身近に、同世代の熱心な政治活動家がいたはずです。

そして多くの場合、その政治活動家の友人知人に対して、学者や芸術家の卵であった彼らは、当時いくばくかのコンプレックスを抱いていたはずです。(中略)


というのも、人が学問や芸術の道を追求する動機も、たいていはその時代や社会に対する疑念や違和感であるからです。(中略)
政治活動は、それらの疑念や違和感を直截に解決しようとするものであります。

だから、学問や芸術などという、しちめんどくさい、回りくどい方法ではなく、政治活動をやる方がいいに決まっているのです。

にもかかわらず、彼らは「あえて」、政治活動ではなく、芸術や学問という別の道を選択したわけです。

政治活動は、できるだけ多くの諸個人にそれに参加させることを、必然的に追求します。

当然、学問や芸術などという、目的のない云わば自己満足的な活動にうつつをぬかしている友人・知人に対して、政治活動家は、そんなものはほどほどにして君も我々の政治活動に参加しろ、と機会をとらえてはせっつくことになります。

政治活動家の云っていることの方が正しいことを、学者の卵や芸術家の卵たちもよく分かっています。

しかしそれでも彼らは、まあたまには説得に応じて政治活動の現場に顔を出すこともあったでしょうが、基本的には自分の足場を学問や芸術の世界に置くことを「あえて」選択したのです。

状況への疑念や違和感という本来のモチーフからすれば、政治活動にどっぷり浸かるのが最良の選択肢であることを充分にわかっていながら、「あえて」そうしなかったのですから、彼らはなぜ自分がそのようなヘンテコな選択をするのか、徹底的に自省しなければならなかったはずです。
現在の学問や芸術が概してつまらないのは、この自問自答を欠いているからです。学問や芸術というのは本来、政治活動をやらずに「あえて」選択する道なのです。

現在、学問や芸術の道に進もうとする人たちはこの「あえて」性が欠片もありません。

「あえて」性のない学問や芸術に、存在意味はありません。

むしろ学問や芸術の道に心ひかれている人は、今は「あえて」政治活動を始めるべきでしょう。

魅力的な政治活動家となって、学問や芸術などという自己満足にうつつを抜かしている同世代を脅かすようにならなくてはいけません。

そして結局は、そのことが彼らの学問や芸術を本当に力あるものとして再生させることにもつながるのです。少なくとも自分自身に関しては、このまま緊張感のない学問や芸術の道へ進むことを、ぐっとこらえようではありませんか。学問や芸術への転身は、政治活動に”挫折”してからでも遅くはありません。(以下、略)

 

結論


活動家は


尾崎世界観より

 

あのちゃんより

 

偉い!!

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引用の文章は「政治活動入門」に掲載されています。
こちらから読むと、中略を挟まずに全文を通しで読む事ができます

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